【摘要】台北中琉文化经济协会创立于1958年,是战后台湾与冲绳交流的重要窗口,此一具有历史意义的民间组织为纪念两地交流60年,委托笔者编撰一册《中琉文化经济协会60年》,以资留下珍贵的历史纪録。2016年笔者将中琉文化经济协会文书搬入研究室后,即开启长达两年的查阅工作。笔者发现中琉文化经济协会收藏了大量的公文﹑书信﹑工作纪要﹑照片﹑考察项目报告与剪报等多样化的文献。详细阅读内容,则多记载台湾与冲绳之间的交流途径与往来实况,可以说,是具体反映台、冲关系与社会脉动的珍贵史料。
本文主要利用其中一部分材料,借由冲绳名人函札之分析,阐明书信之史料价值及中琉文化经济协会从事台、冲交流之意义。中琉文经协会文书业已捐赠中研院近代史研究所档案馆展开数据库计划并保管典藏。
【关键词】中琉文化经济协会 知念朝功 方治 西铭顺治 宫城仁四郎
前 言
台北中琉文化经济协会(以下简称中琉文经协会)创立于1958年3月10日,是战后台湾对琉球(冲绳)的重要交流窗口,此一富有历史意义的民间组织为庆祝创会一甲子,预定2018年出版一册《中琉文化经济协会60年》,以资纪録台、冲交流60年之历史事迹。
由笔者编撰的《中琉文化经济协会60年》(电子书)约计30万字,内容分为两单元,第一单元最独特的民间团体,包括:第一章中琉交流60年图像及组织,分为三节:交流活动写真、档案文献图片、历届人事动态﹔第二章领导人物特写,主要记述历届理事长的贡献。第二单元各种交流活动实録,包括:第三章经贸交流、第四章农渔畜牧业交流、第五章文教交流、第六章学术交流、第七章体育观光交流。文末附録:中琉文经协会大事纪要、琉球冲绳大事纪要、参考文献。
笔者早在1986年加入中琉文经协会成为会员,2016年负责执行《中琉文化经济协会60年》编撰工作时,发现该会收藏了大量的公私文书及剪报。本文主要利用其中一部分书信,试就冲绳名人函札之分析,阐明书信之史料价值及中琉文化经济协会从事台、冲交流之意义。
一﹑琉球政府行政副主席知念朝功的书信
知念朝功,1914年出生于那霸,1921年就读冲绳县立师范学校附属小学,1927年入冲绳县立第一中学,1932年入熊本第五高等学校,1937年考进东京帝国大学法学部,1942年编入步兵第47连队。1945年二战结束后历任:冲绳民政府事务官(1946年)、冲绳群岛政府法务部长(1950年)、琉球政府法务局长(1952年)、琉球政府立法院议员(1954年,连选连任五届)、琉球政府行政副主席(1968年)。知念朝功于1971年退休,1972年任冲绳振兴开发金融公库副理事长,1980年任冲绳Orion Beer株式会社取缔役会长,1984年任冲绳县酒类制造业联络协议会会长,1986年病故,享年72岁。
知念朝功担任琉球政府副主席时,曾于1969年8月4日至12日率领通产局长﹑通产局商工课长、琉球大学副教授,一行6人来台考察9天。1970年7月13日再访台湾,一下机即于机场贵宾室举行记者招待会,说明此行访台的主要目的是向台湾学习经济发展经验。14日,中琉文经协会举行欢迎酒会,当天各界代表约有百余人出席。17日上午,知念朝功参加中琉文经协会安排的中琉经济贸易座谈会后,结束行程返国。8月知念朝功致中琉文经协会方治理事长一信,内容如下︰
谨启 盛夏の候、贵台にはますます御清栄のこととお庆び申し上げます。
さて、先般私ども一行が侨务委员会のお招きで、锦地を访问いたしました际は、御多忙中にかかわらず、种々御高配を赐わり厚く御礼を申し上げます。
おかげさまで、短い滞在期间ではございましたが、贵台ならびに关系御 当局の温い御配虑ご援助により、终始楽しい旅を続けることができ、とりわけ贵国のすばらしい御発展ぶりに、身近に接することができましたことは、今回の访问の大きな成果に一つでございます。
さらに私どもから、贵政府にお愿い申し上げました贸易の拡大、ならびにパインあるいはキビ刈作业に従事する労働者の琉球への道入の问题等につきましても、贵台をはじめ关系御当局の深い御理解と御协力により、明るい见通しが得られましたことは、大変喜ばしいことで、心から感谢申し上げます。
今后とも格别の御高配を赐りますよう、御愿い申し上げます。
今回の私どもの访问が、いくらかなりとも中琉间の亲善の上で、お役に立つことができましたならば、私どもの喜びこれに过ぎるものはございません。
终わりに、贵台の御健康と御繁栄、ならびに贵国の限りなき御発展を祈念いたしまして、御礼の御挨拶といたします。
即谓7月访台之际,承蒙中琉文经协会、侨务委员会等各方人士予以热忱的接待,谨此深表感谢。这次访台行程虽短,但有您和当局的关照,而得有一趟愉快的旅行,尤其是,亲临台湾看见经济蓬勃发展,是我此行的一大收获。有关台湾菠萝或甘蔗业劳工输出琉球问题,期盼得到当局的理解与协助。
1971年知念朝功退休,仍与中琉文经协会维持良好的互动关系,1986年10月16日病故,22日其遗族于那霸市奥武山体育馆举行告别式时,方治理事长赠送一幅挽联曰:
知念朝功先生千古
政坛勋隆 货殖绩懋 文经交流钦卓识
苔岑谊厚 遥天惊耗 薤诔蒿歌怅哀音
日文翻译:知念朝功先生 先古を离れても心は通じる
政界に多大な功绩を残し、経済界にも活跃された。台湾とも文化、経済界に交流して先生の卓识を仰いでいた。同志としての交谊も厚かったが、はるかの地に死去の报に惊いた。悲しみの葬丧歌で哀音の中に葬を御送りする。
中琉文经协会副理事长张希哲致赠一首悼念诗云:
每从访问会琼芝 辄论中琉增友谊
促进交流齐努力 嘉言辅世佩真知
客岁暮秋重畅叙 归国移时噩耗随
十载知交钦雅范 怅将心意写哀思
日文翻译:知念朝功先生の柩を送る诗
先生を访问します毎に、珠玉の会场にて会谈し、その度毎に中琉の友好の増すを论じました。中琉の交流を促进することに斉しく努力し、先生の立派な御意志は世を辅する真知でありました。去年の秋の末に楽しい会合を重ねましたのに、台湾に帰って间もなく死去の报が参りました。十年の长い交わりで、温厚で立派な御人柄を钦仰しましたので、いたむ心意で哀悼の思いを现して先生の御霊にお赠りいたします。
以上哀悼文反映,知念朝功自1969年起至1986年去世前为止,一直和中琉文经协会保持往来,和方治、张希哲有很深厚的友情关系。
二、冲绳自由民主党总裁西铭顺治的介绍信
西铭顺治,1921年出生于与那国岛,1935年就读冲绳县立第二中学时,即胸怀抱负,立志将来要做个杰出的政治家。西铭顺治1942年考入东京帝国大学政治学科,但没毕业就参加了“学徒出阵”,进入海军馆学习射击技术。1943年被派往爪哇岛担任高射炮指挥官,1945年因战败被俘。1946年离开收容所返乡复学,1948年毕业,于外务省管理局经济课任职,一年后辞官归里,参加冲绳岛的建设事业。1954年当选琉球政府立法院议员,开始大展宏图。1958年任琉球政府经济局长,1961年任琉球政府计划局长。1962年当选那霸市长,连选连任两届,1968年当选冲绳自由民主党总裁,同年琉球政府举办行政主席首次选举,败给屋良朝苗。1970年参加国政特别选举,当选众议院议员,连选连任三届。1978年当选冲绳县知事,连选连任三届。1990年竞选连任,但被大田昌秀击败。1993年重任众议院议员。1996年病倒,1997年退出政坛,2001年辞世,享年80岁。
西铭顺治担任经济局长时,曾经跟随行政主席大田政作一同访台,对台湾的经济发展成就留下深刻的印象。1969年西铭顺治为协助南大东村推展离岛农业,致中琉文经协会一函言:
谨启 盛夏の候、贵台には益々ご壮健にて、职务ご精励の事と拝察お喜び申し上げますと同时に、台琉経済交流のため、お力添えをいただいている事に対し感谢申し上げます。
さて、南大东村长の喜纳勉氏をご绍介致します。
喜纳氏は冲縄自由民主党の党员として活跃されている人格高洁、识见豊かな方であります。
此度、冲縄の基干产业である砂糖生产に最も必要な労务の提供について、 贵台のご支援とご配虑を赐りたく贵地を访问致します。
ご承知のとおり冲縄は季节労働者が少なく、これまで贵台のご尽力によ り毎年台湾から労务者を招き、これからの方々のご协力により経済も进展致しており感谢致しております。
今后ともよろしくご高配下さいますようお愿い申しあげます。
贵台のご健康とご繁栄をお祈り致します。
敬具
1969年7月5日
冲縄自由民主党総裁 西铭顺治
指出西铭顺治是以冲绳自民党总裁的身分,介绍党员喜纳勉是一位品德高尚、见多识广的人。糖业乃冲绳的基础产业,喜纳勉村长的访台目的是,募集糖业最需要的劳工,祈请支持与关照。又谓,冲绳季节性的劳工很少,因为您尽力帮忙,每年才能从台湾招募到劳工,今后仍靠各位协助,促进冲绳发展经济。
1969年7月11日喜纳勉村长与议员等一行6人访台,亲赴中琉文经协会表达谢意。其后,南大东岛劳务委员会、北大东农业组合、大东制糖会社等公、私单位都各自组团接踵访台。
三﹑冲绳县知事西铭顺治的推荐函
1969年西铭顺治在台北记者会中说:“琉球制糖业和菠萝业的发展,完全是在台湾当局的协助下成长的。希望台湾能继续给予大量的人员与技术协助。”1978至1990西铭顺治任冲绳县知事期间,常向中琉文经协会推荐各行各业人员访台,以汲取台湾经验。如,1985年9月10日致中琉文经协会一函言:
时下、益々御清祥のこととお喜び申し上げます。
本県の农业振兴につきましては、これまで种々御协力を赐り衷心より感谢申し上げます。
さて、本県は豊富な太阳エネルギー等亜热帯の自然的特性を生かした亜热帯农业の确立に取り组んでいる最中であります。
そこで、亜热帯农业先进国として、多大な成果を挙げておられる台湾の豊かな経験に学ぶため、昨年と同様に下记のとおり视察研修団を派遣したいと思います。
つきましては、御多忙の折、诚に恐缩に存じますが、実情を御贤察のうえ、视察研修団の受け入れ方よろしくお取り计らい下さいますようお愿い申し上げます。
记
1. 视察研修団
(1) 県、市町村の职员(名簿别纸)15名
(2) 団长:県南部农业改良普及所次长いしかわ ひろみち(石川広道)
2.日程:别纸の通り
即谓冲绳有丰富的太阳能,为发展亚热带农业,故与去年同样派遣视察研修团访台,向农业先进地台湾学习农业经验。
中琉文经协会收到此信,即于9月11日以中琉文字第222号公函邮寄:台湾省农业试验所、彰化县溪湖果菜市场、台湾省农会、亚洲蔬菜研究发展中心、台北市士林区农会等单位,内容如下︰
主旨:琉球政府农业考察团一行,由团长石川广道率领来台考察农业设施及果菜栽培情形,预定9月16日下午4时、17日上午9时及下午2时、18日下午3时、19 日下午1时40分前来贵所(场/会/中心/会)参观访问,为促进中琉农业技术交流,加强双方友好关系,敬请惠予安排,妥为接待。函请查照。
说明:一、依据本会驻琉代表办事处(74)琉字第1088号函,暨附送琉球政
府首长西铭顺治先生农营第945号函办理。
二、随函检奉该团名单及行程表各一份。
反映中琉文经协会相当重视西铭顺治的需求,热心联系,竭力促成冲绳考察团来台访问重要农业机构的计划。
四﹑冲绳县知事西铭顺治及农林水产部长久手坚宪信的索求农作物函
西铭顺治为发展日本独具特色的冲绳热带性农业经济,1987年3月12日致方治理事长一函言:
早春の候、方治先生にはますます御清栄のこととお喜び申しあげます。
冲縄の农业振兴につきましては、これまで种々の御协力を赐り衷心より感谢申し上げます。お阴を持ちまして、冲縄农业も着実に进展しており
ます。
さて、この度は、农业试験场育种研究用种苗の譲渡依頼につきましては、御高配を赐り厚く御礼申し上げます。
つきましては、别叶(表1)のとおり种苗の品种名、提供时期、形态、数量等が决まりましたのでお知らせいたします。品种改良研究にとって育种
素材は、大変重要で不可欠な材料でございますので恵赠方につき、特段の御配虑をお愿いいたします。
表1 台湾导入希望种苗リスト(希望引进台湾种苗目録)
略
即谓冲绳为振兴及推展农业,特请中琉文经协会接洽相关单位,惠赠其农业试验场育种研究用途之种苗。附件罗列索赠种苗之品名、运输时间、型态、数量。又谓,育种素材是品种改良研究不可欠缺的重要材料,请中琉文经协会给予特别的关照。与此同时,冲绳县农林水产部长久手坚宪信也致方治一信言:
候届春暖,诸事顺遂,为颂为祝。
对于先生平日致力于协助本地农林水产事业发展,谨致谢意。
此次,安排接洽育种研究用种苗的惠赠单位,非常感激。兹随函致送种苗清单一份,请查收惠允照料。
附记:中琉农业协力会议之举行,经由先生支持、建议,对中琉农业相互发展贡献颇多。1986年度曾派一人赴亚洲蔬菜研究中心,一人赴台湾省
农业试验场凤山热带园艺分所,合计派遣研修员二人。研修贵地高科技的农业技术,返琉后正致力于开发琉球农业技术。第4届中琉农业协力会
议订于5月在琉球举行。正式公函俟决定后寄达,届时请指导为荷。
中琉文经协会收到西铭顺治、久手坚宪信的信后,即将其索赠种苗、种籽事情函告省政府农林厅余玉贤厅长,余玉贤则将琉方开列的种苗种籽及数量清单分别行文:农业试验所、凤山热带园艺试验所、农试所嘉义分所、台湾糖业研究所、农委会、台湾省政府农林厅运销科等单位,请各单位查照办理。表2所示,台湾几乎都照琉方的需求,赠送台湾长久以来付出许多人力与财力所培育成功的优良种籽和种苗。
表2 久手坚宪信收到台湾赠送种籽、种苗清单
略
冲绳农作物经常受到台风、旱灾及植物病虫害的影响,生产量不佳,农业部门获得台湾赠与优良的种籽、种苗后,对其推行品种改良计划帮助很大。
不过,令人好奇的是,台湾为何没有赠送菠萝种苗,是否顾及市场竞争会给台湾输出商带来压力?此点须另作专题探讨。
五﹑那霸中琉协会会长宫城仁四郎的书信
宫城仁四郎,1902年出生于大宜味村,幼年在父母的熏陶下,努力求学,以优异成绩获得奬学金,先后自冲绳县立农林学校、鹿儿岛高等农林学校毕业。1926年于台南制糖会社冲绳糖场任职,1938年担任宫古场场长期间,曾有7次赴台研习制糖技术,1942年被派到爪哇岛负责糖业。1945年日本战败,次年宫城仁四郎返乡,于美国军政府工业部担任副部长,1948年辞职,开创冲绳机械制盐所,1950年成立大东糖业株式会社,1951年设立琉球烟草株式会社。一生历任:中琉文化经济协会会长(1957年冲绳人于那霸创立的社团组织)、琉球工业连合会会长、琉球商工会议所会长、琉球经营者协会会长、日本通产省琉球电气事业协议会委员、冲绳县能源对策协议会委员等职务、琉球糖业研究会会长、琉球分蜜糖工业会会长、琉球菠萝罐头协会会长、琉球外销菠萝罐头同业公会理事长等要职。
宫城仁四郎在1965至1989年担任那霸中琉文化经济协会会长期间,以书信向台北中琉文经协会推介赴台参访、考察、研修的冲绳人士多达4300余人。如1981年3月19日致方治理事长一函言:
谨启 日顷の御高配に対して厚く御礼申し上げます。
扨て、别纸书类の通り、冲縄県におきましては、东南アジア自由贸易地域调査の为、3月31日から4月2日までの三日间、冲縄県座喜味彪好副知事を団长とする一行11名が贵国を访问し、高雄、楠梓両输出加工区、桃园空港、松山空港见本市会场等を视察调査致す予定であります。つきましては、一行が所期の目的を达成できますよう先生のお力添えを赐り度く御愿い申し上げます。
即请方治协助安排冲绳县副县长座喜味彪好等人,前往高雄和楠梓加工出口区、桃园机场、松山机场的商品展览交易馆等处参观。宫城仁四郎和方治是促进台湾、冲绳交流的重要人物,双方书信往返十分频繁。
结语
在1947至1991年以美、苏两国为首的资本主义阵营与社会主义阵营对立时期,台北中琉文经协会和那霸中琉协会是台湾、冲绳进行交流的对接机构。台北中琉文经协会基于公务关系,收藏了类别多元的文书与往复信函,根据本文分析冲绳名人函札之结果,可知其史料价值与意义如下:
1.对探讨台、冲交流史而言,书信提供了不同的视角,丰富了参考材料来源。
2.在研究冷战时代台、冲社会脉动方面,提供了重要的线索。
3.反映台、冲民间社会利用日语工具,各行各业往来热络,台、冲两地呈现全方位的交流现象。
4.见证战后冲绳在振兴产业经济阶段,台湾输出劳工、技术、蔬菜种子、热带果树,不仅实际参与冲绳的经济成长,而且也有一定程度的推促作用。
中琉文化経済协会往复文书から见た冲縄の著名人の手纸の史料的価値と意义
朱徳兰
【要旨】台北の中琉文化経済协会は1958年に创立された。戦后の台湾と冲縄との交流の重要な窓口としての役割を果たしてきた。こうした歴史的な交流の価値と意义を持つ组织の60周年を记念するため、笔者に『中琉文化経済协会60年』の出版物の编集を委托された。交流の贵重な歴史资料を后世に残す意义に赞同して、笔者は、编纂事业に系ることになりました。
2016年以降、笔者は、大量の关系资料を研究室に搬入し、慎重な调査に多くの时间を投入してきた。これまで、中琉文化経済协会の保管する资料を実际に阅覧してみると、公文书、书类、手纸、纪要、写真、新闻の切り抜きなど多义にわたるものであります。内容を详しく検讨すると、台湾と琉球·冲縄の交流の在り方を示す歴史的にも贵重な文献が含まれております。本文では往复资料の一部を利用し、冲縄の著名人たちの手纸の史料的価値を分析し、中琉文化経済协会の歴史的に果たした役割と意义を明らかにすることができました。これらの资料は、「中央研究院」近代史研究所公文书馆でデジタル化し、保管·所蔵しております。
【キーワード】中琉文化経済协会 知念朝功 方治 西铭顺治 宫城仁四郎
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