【要旨】琉球国の清朝への进贡贸易は17世纪末に进贡时に二只、接贡时に一只とし、ほぼ毎年福州で贸易を行うことで确定していった。中国第一歴史档案馆から琉球关系档案が出版公开されたことで、琉球船が进贡及び接贡等で来航毎に搭载物品リストを作成し、琉球から清朝へ输出した物品に対して输入税の免税を受けていたことが分かっている。琉球国は朝贡国であることから搭载物品が免税となったと思われるが、その内容は主に福州将军から免税折というかたちで上奏されていた。この免税折には、琉球船が入航した时期、目的、免税额等を明记しており、「清単」と记され输出した品目のリストが付记されている场合もある。清単には、日本の海产物が大量に记述される等、琉球からの対清输出の実态の一端を垣间见る重要な史料として认识されてきた。ただし免税折自体、断片的な残存状况であり、清単が付された档案の事例はさらに少ない。输出された物品の内容は把握できるが长期间にわたる详细な贸易数量の変迁の把握が难しい侧面もある。本论では、干隆·嘉庆年间の事例を中心に、进贡船、接贡船、谢恩船及び琉球に漂流した中国商船の护送船や、琉球の域内交通で漂流し中国に漂着した船等の搭载货物のために作成された免税折に记述されている免税额の変化に着目してみる。当该时期の免税额の変化に关する分析を通して琉球国の清朝への贸易输出额の変迁に关する倾向について若干の考察を行ってみたい。
【キーワード】进贡贸易 対清输出 档案 免税折 清単
はじめに
琉球国の清朝への进贡贸易は17世纪末に进贡时に二只、接贡时に一只とし、ほぼ毎年福州で贸易を行うことで确定していった。中国第一歴史档案馆から琉球关系档案が出版公开されたことで、琉球船が进贡及び接贡等で来航毎に搭载货物リストを作成し、琉球から清朝へ输出した物品に対して输入税の免税を受けていたことが分かっている。琉球国は朝贡国であることから搭载货物が免税となったと思われるが、その内容は主に福州将军から免税折というかたちで上奏されていた。この免税折には、琉球船が入航した时期、目的、免税额等を明记しており、「清単」と记され输出した品目のリストが付记されている场合もある。清単には、日本の海产物が大量に记述される等、琉球からの対清输出の実态の一端を垣间见る重要な史料として认识されてきた。ただし免税折自体、断片的な残存状况であり、清単が付された档案の事例はさらに少ない。输出された物品の内容は把握できるが长期间にわたる详细な贸易数量の変迁の把握が难しい侧面もある。本论では、干隆·嘉庆年间の事例を中心に、进贡船、接贡船、谢恩船及び琉球に漂流した中国商船の护送船や、琉球の域内交通で漂流し中国に漂着した船等の搭载货物のために作成された免税折に记述されている免税额の変化に着目してみる。当该时期の免税额の変化に关する分析を通して琉球国の清朝への贸易输出额の変迁に关する倾向について若干の考察を行ってみたい。
1 琉球船搭载货物の输税免除
清朝期、琉球船が福州に来航した场合、搭载货物の査験がどのように行われていたかを中国第一歴史档案馆所蔵の琉球关系档案(『清代中琉关系档案选编』以下、『选编』と略す)に残る免税折から事例を绍介すると、干隆28(1763)年正月に来航した进贡船二只について、福州将军福増格の上奏文には、
奴才福増格谨奏、为琉球贡船到关遵例免税事。干隆二十八年正月十六日、据委管南台税
务右营游撃任景报称、本年正月初九日有琉球国贡船二只进口、据该国通事杨文焕开送进
贡方物并随带土产杂物清册、核税、应征银二百二十六两四钱五分五厘七毫五丝。理合转报等情。前来。奴才伏査、琉球为天朝臣属之国、素称恭顺、向来贡船到闽。凡有携带货物例免征税。奴才随批行南台委员、逐细详査。凡系藩使所带货物、照例免其纳税。以广圣主柔远至意、续据报称藩使金邦俊等感激、皇仁前至祝馆望阙、叩谢天恩等情。据此除进贡事宜、应听督抚臣照例辧理外、奴才谨将免过货物税银数目、另缮清单、恭呈御览。所有番使感激谢恩情由、理合恭折奏闻、伏乞圣主睿鉴、谨奏。干隆二十八年二月十六日、奉朱批览。钦此。
とあり、干隆28(1763)年正月9日に琉球の进贡船二只が福州に进口し、琉球国の通事杨文焕によりもたらされた进贡方物と携带の土产雑物の清册(リスト)から征税すべき物品を南台税务右营游撃任景が调べたところ、征税すべき银両は226両4銭5分5厘7毛5纟だった。福州将军福増格は南台税务に先例を调べさせたところ、琉球の货物は藩使が所帯する货物と同等である。その例に照らして纳税を免ずるとしており、また免税した货物とその税银を别途清単(リスト)を作り、皇帝の御覧に呈すると上奏している。
『选编』に掲载された琉球关系档案で最も古い免税折を绍介したが、干隆28年以前から惯例となっていた。干隆31(1766)年の接贡时に福建将军明福が上奏した免税折にも「査、琉球一国最称恭顺、歴届船只来闽、随带货物应征税银、倶蒙圣恩寛免。今此次接贡船所带货物事、同一例、自应仰体圣主柔远深仁。照例免其输税。」とあり、以前からの事例として琉球船の搭载货物を免税としていることがわかる。これは康煕20年代に琉球と清朝の间で琉球船の免税に关する交渉があり、琉球船は进贡船二只の场合、贸易した货物は免税であるが接贡船は税银を征収され康煕24(1685)年の接贡船も征収された。康煕27(1688)年、琉球は外国船の贸易は三只まで税银を免税とする定例に従い、康煕25(1686)年、荷兰(オランダ)国贡使宾先吧芝が免税を愿い出た事例を先例とし、进贡船二只と接贡船一只の贸易について免税とすることを认めてもらっており、琉球船も以后定例化した。
この干隆·嘉庆年间で档案が残る免税折の事例を「干隆·嘉庆年间の琉球国派遣船の清朝への贸易输品目への免税折に关する表(表1)」(以下、表1と略す)にまとめてみた。
先述の事例と一覧としてまとめた内容から琉球船来航より福州の海关部门の査験と报告伝达のシステムを整理すると、琉球侧の通事が予め作成していた随带している土产の杂物清册(リスト)を官伴·水梢の花名リストと一绪に、まず南台税务が受け取り、船に赴き査験する。この时、福州府海防同知と共同で确认していたようである。南台税务は査験を踏まえて货物と、その免税额を计算したリストを作成する。南台税务は、免税リストともに査験内容を福建将军に报告する。その报告をうけて主に福建将军が皇帝へ琉球船の货物に対して免税を行ったという上奏とともに清単(リスト)を付けて报告していたようである。
この琉球船来航时の免税折の残存状况は、干隆28(1765)年から嘉庆25(1820)年の57年间に50件。进贡贸易に伴う进贡船·接贡船·谢恩船や遭难した中国商人を送还させる护送船のような琉球国派遣船が41件(表1)。琉球域内の商船等が难船して中国沿岸に漂着して货物の免税を行った事例が9件残されていた(表2)。その中で、具体的な搭载货物の品目が记述された清単が残されている事例は11件のみであった。この清単が残された事例の搭载货物の数量と免税额について「免税折清単にみえる干隆·嘉庆年间の琉球国派遣船が搭载した个别货物の数量と免税额に关する表(表3)」(以下、表3と略す)にまとめてみた。残された清単の内、干隆28年进贡の免税折の清単の1件のみ、搭载货物の把握はできるが免税额の记载が无い。干隆32年から嘉庆25年间に断片的に残される10件の事例では搭载货物だけでなく个别の免税额の记述も残されている。
この搭载货物に关する课税の税额は个别の物品で规程があったようで、贸易があった时期の货物の取引価格ではなく、一定量の重量や数量毎で税额が决められていたようである。几つか具体的に事例を挙げて绍介すると、屏风类(金彩围屏·金纸围屏·金漆围屏·大雕漆围屏·雕漆围屏·围屏)は1架当り5銭(0.5両)一律で记録が残る时期も全て一律である(表3の税率の项目を参照。以下同じ)。「金彩围屏」、「金纸围屏」等の背景が金色であったり、絵画が描かれている屏风や、「金漆围屏」、「大雕漆围屏」。「雕漆围屏」等の漆工芸品のような屏风、単に「围屏」とある装饰がなさそうな屏风も全て一律5銭の税额である。扇子类(白纸扇·扇纸扇·油纸扇)も、制作仕様が相违しても1把当り6毛(0.0006両)で一律であった。铜器类は数量が把握できても金属制であるためか重量で课税するようで、干隆32年の例を挙げると铜水火炉は八个搭载していたが课税は32斤で1銭6分が本来の征税额で1斤当りだと5厘(0.005両)となる。铜制品はほぼ1斤当り5厘で记録が残る时期全て一律であった。海产物や薬种の原料类等も重量毎のようであった。このように事例が残る搭载货物は重量毎や数量毎で税额が决められ、记録の残る时期だけで言うと酒类の仅かな时期の例外を除いて税额は一律である。清単に记述された个别の免税额の累计は1件の例外を除いて免税折本文记载の総计と金额が一致する(表3清単记载の个别货物の免税额累计を参照)。
表3にあるように搭载货物に关する重量毎、数量毎の免税额は干隆·嘉庆年间で个别の物品で违いはあるが、ほぼ一律であった。个别の物品の数量の分析が可能な清単がある记録は57年中に11件しかないが、免税额の総额は免税折本文に记述されているため把握が可能で、同じ57年中に50件事例があり、难船ではない琉球国から派遣された船只の事例も41件ある。免税额の比率がほとんど変更されておらずほぼ一律であるため琉球船の免税额の総额の推移で当该时期の琉球の进贡贸易の推移の倾向を分析することは可能ではないだろうか。次に派遣された琉球船の免税额からみた干隆28年から嘉庆25年迄の进贡贸易の特征を述べてみたい。
2 免税额からみた琉球国の进贡贸易の推移
个别の搭载货物に课税された免税额の税率は先述の通り干隆·嘉庆年间で、ほぼ一定であるため免税额の多寡がある程度ではあるが琉球国の进贡贸易の増减を表す一つの指标となると思われる。琉球船の免税额の推移を追った表1をグラフ化し(表1-1)、この推移の倾向を考察してみる。当然进贡时は二只、接贡时は一只派遣されるので免税额も进贡时に多く、おおよそ接贡时に减少する倾向となるが、干隆28年から嘉庆25年间で进贡·接贡双方とも徐々に免税额が増加していく倾向にある。次に进贡时と接贡时の状况を个别に考察してみる。
(1)进贡船の免税额の推移の特征
进贡时(表1、表1-1、表1-2)、干隆28年から30年代は免税额が200両超える程度だが、干隆40年代になると干隆40(1775)年に278両余となり200両后半に増加する。干隆42(1777)年に227両余と干隆30年代の水准に一旦落ちるが、干隆46(1781)年には288両余と再び増加し200両后半となり干隆52年に300両を超え、干隆60(1795)年には390両余、嘉庆4(1799)年には405両余と増加していく。その后も嘉庆年间、免税折で记録がある进贡の年はおおよそ350両前后である。但し例外的に表1-2のグラフが落ち込んでみえる嘉庆13(1808)年と嘉庆23(1818)年·24(1819)年の事例は若干の说明が必要である。
嘉庆13年は尚灏王册封の年で、この年は册封使派遣の伴う谢恩のため谢恩船一只を派遣しており、その谢恩船に关する免税折の记録が187両余であった。尚敬王册封时には干隆21(1756)年に进贡船二只を派遣して通常の头号船にあたる船只に耳目官ではなく王舅を使节の代表として谢恩使としていた。尚温册封时にも嘉庆5(1800)年も同じように进贡船二只を派遣し头号船は进贡谢恩船としていた。嘉庆13年は进贡の年に进贡船二只を派遣せず谢恩船一只であった。この年、琉球の进贡贸易が退潮したかにみえるが、これは嘉庆11(1806)年の进贡二号船遭难と嘉庆12(1807)年接贡船遭难の事情が影响しているようである。大まかな状况を『歴代宝案』の琉球国中山王から福建布政司宛の咨文(嘉庆13年12月21日。2-105-7)を挙げて绍介してみる。
琉球国中山王尚 为接回员役事。案照、嘉庆拾壹年、进贡贰号船只、漂到台湾洋面、礁撃碎。叨蒙大皇帝垂怜于海邦、赏赐银两、令其员役租雇商船、以得回国、深仁厚泽有加无已也。随遣都通事郑崇基等、奉还其船。又、嘉庆拾贰年、接贡船只、飘到海坛洋面、撞礁撃碎。又、蒙照依前例雇船回国。此诚皇恩宪徳、感激无地矣。亦经遣都通事郑世俊等、奉还其船。各在案。不料郑崇基等所驾船只、驶到中华外洋、遇着贼船。尽力捍战、然见势难防、任风逃走、飘到大岛。奈被风波损破。是以遣发本国海船以行赔还。兹査其两船员役等、理合于来夏附搭谢恩船只回国。但许多人数、不能搭回壹船。倘非另拨船接回、势必过半留闽、不副皇上厚恤远人、早汛遣回之浩慈。为此特遣都通事毛廷器等、坐驾海船壹只、率领梢役、前赴闽省、接回各员役(下略)。
『歴代宝案』の第2集巻105所収の8文书は内容のほとんどが嘉庆11年の进贡二号船遭难と嘉庆12年接贡船遭难に关する案件であるが、上记7号文书でその概略を知ることができる。嘉庆11年は进贡二号船が沈没してしまい、二号船の乗组员は中国の商船を借用して帰国した。借用した商船を返却するため都通事郑崇基等を派遣し福州に向けて出発したが海贼に袭われ逃げ、奄美大岛に漂着。船は破损し沈没してしまった。郑崇基は那覇に戻り琉球船に乗って再び福州を目指した。沈没した商船は琉球から乗ってきた船で弁偿した。嘉庆12年の接贡船も沈没し接贡船の乗组员は中国の商船を借用して帰国した。これも借用した商船を返却するため都通事郑世俊等を派遣した。郑崇基は乗船した琉球船を弁偿として中国商人に引き渡しており、郑世俊も乗船した商船を返却したため琉球に帰国するためには通常、来年(嘉庆14年)に来航する谢恩使を迎える船に乗るしかない。しかし、乗船する人数が多いので、都通事毛廷器を派遣して员役を接回(帰国)させるための船只一只を福州に向かわせた。嘉庆13年に琉球から福州へ渡航した船を整理すると、①谢恩船、②弁偿のための琉球船、③中国商人に返却する商船、④②③の乗组员を帰国させるための琉球船の四只だったということになる。このうち②、③の船只は琉球には戻らないが航海の安全性からも空船で福州へ派遣したとは考えにくい。おそらく清朝へ输出するための贸易品を搭载したうえで向かったと思われる。この年の免税折は残念ながら谢恩船しか残されおらず187両余だが、残り三只に搭载された贸易品を合わせると嘉庆年间の进贡时の免税额である350両前后、もしくはそれ以上あった可能性もある。推测ではあるが、嘉庆13年は进贡の年であるが、进贡谢恩船と二号船を派遣せず谢恩船のみの派遣となった理由は、このような事情もあったからではないだろうか。返却する中国商船と弁偿する船とはいえ、琉球から福州へ二只の贸易船を派遣し、进贡使节の帰国とは别に通常は派遣しない员役を接回(帰国)させる接贡船を派遣し同じ年に谢恩船を含めて四只の実质上の贸易船を仕立てることに成功している。帰国する船は翌年の谢恩使を迎える船と合せて二只しかないが贸易する机会を増やすという意味では成功したのではないか。但し嘉庆11年进贡二号船と嘉庆12年接贡船は沈没し、嘉庆11年进贡二号船の人员を帰国させ返却する予定であった中国商船も沈没してしまったので琉球は三只の贸易船の利益を失ったこととなる。嘉庆13·14年の谢恩船一只·护送船二只·接贡船一只·接回谢恩船一只の派遣は嘉庆11·12年の进贡船·接贡船派遣失败の挽回を期しての取り组みだったのではないだろうか。その理由としては嘉庆13年の尚灏册封に伴う出费を勘案したものではなかったかと考える。この时期、首里王府は、尚灏册封を控えて萨摩からも银を借用しており、清朝侧にも银五千両を借用していた。
嘉庆23年の进贡头号船の199両余と嘉庆24年の进贡二号船の153両余は、同じ嘉庆23年派遣の进贡船二只の头号船と二号船の来航が半年遅れたので、别の免税折となったものである。この二只の免税额を合算すると353両余で嘉庆年间に推移した进贡时の350両前后という免税额と同程度となっている。
(2)接贡船の免税额の推移の特征
接贡时(表1、表1-1、1-3)、干隆30年代から40年代、干隆37年に284両余と突出した年もあるが、それ以外の免税折の记録がある年は100両前后の免税额である。干隆55(1790)年に335両余と进贡时と同じ程度の免税额の突出した年があり、その后、干隆59(1794)年は201両余、嘉庆15·17·20年の接贡时には200両を超えていた。嘉庆末の22年と24年の接贡时は150両程度と落ち込むものの、嘉庆年间には接贡时に300両を超える年はないが、それでも免税额の记録が残る年は150両から200両を超える程度で推移し、干隆30年代から40年代の100両前后よりも増加倾向であった。
(3)护送船の免税额の推移の特征
中国商船が琉球及び奄美地域の南西诸岛に漂着し、商船が使用に耐えられなくなった场合、首里王府は护送船を仕立てて中国商人を送还した(表1、表1-4)。当然、中国商人を送还するだけでなく进贡·接贡船と同じように货物を搭载して贸易を行っていた。干隆·嘉庆年间の护送船で免税折が残っている事例は4件ある。护送船の免税折で清単が残っている事例がないため具体的な货物の内容は把握できないが免税额から贸易の规模は窥い知ることができる。
嘉庆8(1808)年の护送船一只が203両余、嘉庆15(1810)年の护送船一只が220両余で同じ时期の接贡船一只の150~200両を超える程度と倾向が一致する。嘉庆21(1816)年の护送船は送还する案件が3件で人数も多かったことから二只派遣され、免税额は440両余もあり、干隆·嘉庆年间で免税额の记録が残る中で嘉庆4年进贡时の405両余を上回り、この期间としては最大の免税额となっている。それだけ贸易目的の大量の货物を搭载して福州に来航したということだと思われる。
(4)难船の免税额の推移の特征
干隆·嘉庆年间に难船で福州に回送されてきた船只で免税折の记録があるのは9件で、干隆年间が7件、嘉庆年间が2件となっている。清単は付されていないが、搭载货物が微细であるため免税折本文に物品が记録されているものもある。干隆年间の6件は、全て琉球国域内で年贡や物资を运ぶ目的の贡船及び商船で、王府が清朝へ派遣目的で渡航させた船只ではない。そのため搭载货物は那覇から宫古·八重山地方での贩売を目的とした铁制品や茶叶、磁器であったり、逆に棉布·棉花·米粟等の谷物のような宫古·八重山地方から王府への贡纳品であった。免税额は7両余から1両余と微细であった。所持していた货物は全て売却したのかは不明であるが、干隆36(1771)年に难船した难番中山头目任良才等は棉布637疋を福州で売却した。しかし棉花200斤は売却できなかったのか持ち帰ったと记録されている。また铁制品を所持していた场合、福州での贩売は禁止されていた。干隆36年の难番兪崇道等19名は钢铁130斤·铁锅504斤を所持していたが贩売は禁止と通达されたようである。干隆37(1772)年の该船难番智汝沃等も大小铁锅·铁条を所持していたが贩売は禁止と记録されている。干隆60(1795)年の难船は遭难した进贡船の员役を琉球に帰国させるために借用した中国商船を返却するために清朝に向った船只であったが、海贼に遭い银両·货物·防船军器を夺われ所持している货物の免税额は5両弱であった。但し琉球侧の『歴代宝案』によると那覇を开船した当初は、色银415両、海参·鲍鱼·沙鱼翅等の海产物や衣类、印花布と记録され、今日红型と呼ばれる布の可能性が高いものまで货物を大量に搭载していた。结局海贼に强夺されてしまったが、借用した商船を返还する目的の片道の航海で、琉球侧がかなりの贸易を行うもくろみがあったことが窥える。
嘉庆元(1796)年の难船の难番武良瑞等跟伴9名舵水41名の场合、免税折には武良瑞船の航行目的の记録は无いが、琉球侧の『歴代宝案』には事情が详しく残されており、武良瑞船は、砂糖2048桶·焼酒26壷·塩豚·苏木·箱匣等の货物を大岛へ输送するため干隆60(1795)年4月16日に那覇を开船したが、大风に遭い砂糖を502桶海中へ投弃するも沈没を免れ浙江省平阳県に漂着した。その后、平阳県の商船により福州に人员·货物共に回送され、残った砂糖1546桶の内、湿烂した砂糖桶800桶を売却し、さらに残った746桶と苏木等は琉球に持ち帰った。免税折には免税额が104両余と记録されており、清単が残ってないので免税额は売却した800桶分か、武良瑞船の货物全てにかかる额か明确ではないが、干隆36年に难船した难番中山头目任良才の船が棉布を売却し棉花等を持ち帰った事例のように、売却の可否に关わらずおそらく货物全ての免税额ではないかと思われる。
嘉庆9(1804)年の难船は、难夷任宪昌·新垣·翁长·宫里等の夷船。三只が个别に遭难し、その搭载货物にかかる免税额の合计が102両余であった。
难船の场合、琉球国域内を航行していた船只が清朝に漂着した场合の免税额は微细であった。嘉庆9年の事例でも102両余の免税额があるが难船三只を合わせた额である。また元々琉球国域内での税の运搬や、宫古·八重山地方という岛屿地域への必要物资の贩売であり、清朝への贸易目的で搭载された货物ではないため漂流后、福州での売却も难しかったと思われる。
嘉庆元年の事例は清朝侧の免税折、琉球侧の『歴代宝案』共に行先は大岛となっている武良瑞船が难船したものであるが、おそらく本来の目的地は鹿児岛であり、萨摩藩への贡纳品(仕上世)もしくは琉球国が鹿児岛で売却する砂糖·苏木·焼酒(泡盛)を运送する船只だったのではないかと思われる。そのため搭载货物も多く免税额も100両を超える额となったと考える。
おわりにかえて
~琉球船の免税额の推移に关する総括~
中国第一歴史档案馆所蔵の琉球关系档案に残される进贡贸易等に伴う贸易品目にかかる免税折を分析して琉球国の清朝への输出贸易の変迁の一端を干隆·嘉庆年间に绞って考察してみた。清朝の朝贡国としての琉球の进贡贸易については康熙20年代に进贡船二只が免税とされ、その后、接贡船一只も含めて三只を免税とすることが定例となった。免税に关する手続きは、琉球船が福州に来航すると、琉球侧の通事が作成した搭载货物の清册(リスト)が南台税务に提出され、それを元に南台税务は査験を行い、福州将军へ报告をする。その报告を受けて福州将军は皇帝へ上奏を行った。免税折には琉球船が入航した时期、目的、免税额が记録されているが本文には具体的な贸易品目は记録されていない。具体的な贸易品目と个别の品目の免税额が记録された清単が付された场合もあるが、清単が残っている免税折は仅かで长期间の倾向を捉えるには断片的である。免税折に记録された免税额の総额でしかないが、その総额の推移を追うことで干隆28年から嘉庆25年の57年间の琉球の清朝への贸易の倾向を考察してみた。その特征を挙げると、
①进贡时二只、接贡时一只の派遣であるため、おおよそ进贡の年の免税额が増え、接贡の年の免税额が减じる倾向にあるが、年によっては接贡时で一只の派遣でも进贡时に匹敌しうる免税额の年もある。
②琉球の进贡贸易时の免税额は干隆28年以降嘉庆年间にかけて徐々に増加していったことが分かる。进贡の年は干隆20から30年代の免税额は200両程度だが、干隆40年代には200両后半となり、干隆50年代から嘉庆年间にかけて记録のある年は350両前后で推移している。接贡の年も干隆30年代から40年代、例外もあるが免税额は100両前后である。干隆末から嘉庆年间にかけては200両を超える年もあり、150両から200両を超える程度で推移していた。
③中国商人を送还するために派遣された护送船の场合、事例がある嘉庆年间に一只で200両を超える场合もあり、进贡贸易の接贡船派遣时と匹敌する免税额となっている。嘉庆21年の事例のように440両余と进贡船派遣时よりも免税额が大きい场合もあった。また琉球船が中国沿海で遭难し员役が帰国できなくなった场合、中国商船を借用して琉球に帰国させ、后に、その中国商船を福州に送还するが、片道だけの航海でも琉球から清朝へ输出する货物を搭载して输送していたようである。
④难船の场合、元々清朝への贸易目的ではなく琉球国内で贡纳品や必要物资の域内运送船が清朝に漂着した船なので搭载货物も少なく免税额も微细であったと思われる。但し嘉庆元年の大岛行きを称する琉球商船の难船は琉球域内ではなく鹿児岛行きの萨摩藩への贡船もしくは首里王府の商船の可能性がある。萨摩藩への贡纳もしくは鹿児岛での売却を目的として砂糖等の货物の输送であるが湿烂した砂糖の一部は福州で売却している。
⑤②で进贡时も接贡时も免税折が残る干隆后半から嘉庆年间にかけて免税额が増えていく倾向にあり、③の嘉庆年间の护送船も中国商人が送还する本来の目的であるはずだが、进贡船·接贡船に匹敌する免税额が确认されるので、琉球侧はかなりの货物を搭载していたと思われる。その要因として幕藩体制下の徳川日本において対清贸易で输出された品目が银中心から铜·俵物(海产物)、さらに俵物に移っていたことが挙げられる。同时期の琉球の进贡贸易で渡唐银の数量に変动があったか确认は难しいが、银から俵物への移行があった可能性はある。免税折本文の免税额ではなく添付の清単には长崎贸易で俵物三物と呼ばれる海参(海鼠)·鲍鱼(干鲍)·鱼翅(フカヒレ)や诸色と分类された海带菜(昆布)·海白菜(ワカメ)等の海产物が年を追うごとに増加していた。渡唐银が减少して俵物が増加したことが要因で琉球の免税额が増加倾向であるとしたら琉球の进贡贸易の総体が干隆后半から嘉庆年间にかけて増加したのではなく、贸易内容が変质していったという可能性もあるが、本论で积み上げた统计资料の分析の结果として免税额が徐々に増加し、免税措置を受ける品目の総体については贸易量が増加していったことを确认しておきたい。
⑥外国船の贸易が三只まで免税とする先例から琉球船の免税も定例化していったが进贡船·接贡船の派遣以外に同じ年に护送船が福州に来航する场合もあったが、その琉球の护送船も免税とされていたようである。
⑦嘉庆13年に册封と进贡の年が重なり谢恩船を派遣したが进贡船は派遣しなかった。しかし同年、琉球に漂着した中国商人の送还のため二只の护送船を派遣し、さらに护送船二只の员役の接回(帰国)を名目に船只を派遣して、合计四只を派遣し贸易を行ったうえで免税を受けていた。様々な名目で琉球国が船只を派遣したのは尚灏册封による支出の补填を企図した可能性が、その背景にあったのではないかと考える。
免税折に记述された免税额は、具体的な琉球の贸易物品の数量や贸易额ではないが、免税率が固定されほとんど変化が无いことから、清朝に来航した琉球の船只毎の贸易规模の指标となり、さらに记録の残る年毎の比较検讨の材料として活用できるのではないかと考え、一つの试行として考察を加えてみた。本论の先行研究となる兪玉储氏が考察を行っているように、このような免税折は干隆·嘉庆年间だけでなく道光·咸豊·同治·光绪年间にも残っており、琉球から清朝への输出货物だけでなく、清朝から琉球への输入货物にも课税が免税され记録が残っている。18世纪中顷から19世纪后半の琉球国が崩壊するまでの进贡贸易の状况を分析する一つの手法となるのではないだろうか。今后、道光以降の琉球から清朝への输出の変迁を検讨すること、清朝から琉球への输入货物の分析、そして残存事例は少ないが清単に记述された具体的な免税品目の数量の分析を行い、また清朝侧の档案史料だけでなく琉球侧の史料からも状况をアプローチした考察を行うことを课题として别稿にて検讨していきたいと考える。
表1 干隆·嘉庆年间の琉球国派遣船の清朝への贸易输品目への免税折に关する表
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表2 干隆·嘉庆年间の琉球国难船の搭载货物の免税折に关する表
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表3 免税折清単にみえる干隆·嘉庆年间の琉球国派遣船が搭载した个别货物の数量と免税额に关する表
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论琉球国对清出口贸易的变迁——以干隆、嘉庆年间琉球船舶贸易免税额为中心
上江洲安亨
【摘要】17世纪末、琉球国对清朝贡贸易以两条进贡船、一条接贡船,在福州进行贸易,并以几乎年年来贡的形式确定下来。依据中国第一历史档案馆公开出版的琉球相关档案制成了琉球船进贡及接贡时所载货物清单,由此得知琉球对清出口货物享有进口税免税优惠。琉球国是进贡国,从而船上所载货物得以免税,具体内容主要由福州将军上免税折呈报。免税折中记载了琉球船来航时间、停留时期、目的、免税额等,有时候会附上记载于“清单”即出口品目一览表。清单上记载有大量来自日本的海产品等,清单是可以窥视琉球对清出口实际情况的重要史料。然而,由于现存免税折并不完整,而且附有清单的档案数量有限,所以虽然由清单可以掌握出口货物的情况,但是长期以来的贸易数量变迁详情却难以掌握。本文拟以干隆、嘉庆年间为中心,着眼于进贡船、接供船、谢恩船,漂到琉球的中国商船的护送船、漂到中国的琉球船等所载货物的免税折中的免税额的变化,通过分析该时期免税额的情况,考察琉球国对清出口贸易额的变化走向。
【关键词】输出贸易 琉球船 免税额
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